第7回~第12回(長野市民新聞2001年7月24日~8月4日掲載分)
7 『長野高等実践女学校教師に 全校生徒3人闘志わく』
植物「ヒトリシズカ」について教わったことがきっかけで出会った小山海太郎先生。人の縁というものは、不思議なものだと思いました。
八幡の父からある日、東京・九段の私あてに一通のはがきが転送されて来ました。
見れば、あの小山先生からのものでした。
先生は当時、私立長野和洋裁縫女学校の校長を務められていたことを、その時知りました。
長野和洋裁縫女学校は大正14(1925)年、原山芳菊先生が、将来は女子教育こそ重要な分野になると予見されて県町に開かれた学校でした。
原山先生は、理想に向かって日夜、学校の育成に奮闘されましたが、事情があって昭和8(1933)年、旧満州(中国東北部)に渡られたため、小山海太郎先生が後を継いで校長に就かれていました。
小山校長からのはがきの文面は「うちの学校に教師としてぜひ来てほしい」という趣旨のものでした。
私は小学校のころ、父から女流教育家・下田歌子さんらの話を聞かされていたことや、自ら選んで進んだ和洋女子専門学校(現・和洋女子大)の先生方の教育愛に接し、私学の女子教育に魅せられていましたので、小山先生のお誘いに迷うことなく応じることを決めました。
なぜなら、教育の自由が制約されている私学こそ、人間形成の場と信じて疑わなかったからです。
私は、郷里の両親に自分の気持ちは固まっており、長野和洋裁縫女学校の教師になりたいと伝えました。
両親は反対しました。
親にしてみれば、発展の見込みのない、ちっぽけな私学の将来に不安を抱いたのは当然だったでしょう。
その上、一度決めたら最後までやり抜く一途さと、何事につけても一生懸命になってしまう娘の行く末を重ね合わせたとき、すべてを背負い込んでしまい、生涯苦労するだろうことを敏感に読み取っていたのではないでしょうか。
しかし、その時の私の決意は、ちょっとやそっとの反対で揺らぐようなものではありませんでした。
かくして、私は昭和9(1934)年4月5日、大きな夢を胸に秘め着任いたしました。
私立長野和洋裁縫女学校は1カ月前、中御所に校舎が移転し長野高等実践女学校と校名が改められておりました。
学校に着くと、2つ並んだげた箱に3足の赤い鼻緒のげたが、きちんと並べられてあるのが目に止まりました。
女学校とは名ばかりで、10畳くらいの広さの2つの教室、鈍い光が差し込む職員室、校具も教具も乏しい感じで、運動具などは見当たりませんでした。
赤い鼻緒のげたの持ち主は生徒で、それもたった3人でした。
長野和洋裁縫女学校を前身としたこのちっぽけな学校が、学校法人長野家政学園の始まりでした。
当時の教職員は小林次雄校主と小山海太郎校長、それに私を含め4人の教師の全部で6人でした。
先生と生徒合わせて9人の学校でしたが、私の体から「さあ、これから頑張るぞ!」と闘志がわきました。
そんな矢先、前途多難を暗示するような”事件”が起きました。
8 『引っ越しを繰り返した校舎 経営苦しかったが充実』
初々しい3人の女生徒と顔合わせをしている時、校舎の外でがやがやと荒っぽい男たちの声が響きわたりました。
そのうち、屋根の上を歩く物音までしてきました。
そうこうしていると、突然、私たちの頭の上からザラザラと泥土が降り掛かってきたのです。
びっくりして見上げると、屋根がわらがはがされ、泥板をキイキイと引っぱがす音がしたかと思ったら、ポッカリと天井に穴が開き、強い日差しが差し込んできました。
その時、動ける教師は私一人でした。
あまりのことに、私は頭の中が真っ白になり、なすすべを失っておりました。
3人の生徒たちは、屋根の上の男たちをキッとにらみつけていました。
しばらくしてわれに返った私は、家主の家へ飛んで行き、何でこんなことをするのかと抗議し、善処するよう迫りました。
家主の語るところによりますと、2年も前から家賃を滞納しているので、建物を取り壊して新築するということでした。
私は何とかしなくてはという切羽詰まった気持ちでいっぱいでした。
とっさに、「私が家賃を2カ月分払うから、教室に使える貸家を紹介していただきたい」と頼んでしまいました。
世間知らずの若い娘が、校長の了解を得ずに独断で決めてしまい、後で親にもしかられました。
紹介してもらった家は200メートルほど離れた場所にありました。
数少ない校具や教具を生徒と一緒に運び、引っ越しました。
仮校舎での授業も平常に戻り、2カ月ほどたったころ、今度は中御所に本校舎を建てる計画が持ち上がりました。
話はとんとん拍子に進み、その年の暮れにしゅん工の運びとなりました。
中御所町職業安定所裏手に建てた校舎は、バラックの一部2階建てで、教室は3つとなりました。
ただ、隣接して北信生糸工場がありましたので、蚕のサナギから脂を絞るモーターの音がけたたましく、授業が妨げられました。
その上、土を掘り取った跡地で、敷地全体がくぼ地だったため、雨の日など工場の汚水が教室の中に流れ込んで来る始末でした。
私が教職に就いた昭和9(1934)年ころといいますと、経済は混乱、国民生活は疲弊。それに乗じて軍部が増長し、社会全体を暗雲が覆っておりました。
そのような状況下で、私立学校の経営は困難を極めていました。
教師となったものの、給料はろくにいただけませんでした。証文だけということがよくありました。
そんな時でも、小山海太郎校長は「教職とは聖職だ。金を取るために、教師になったのではない」とおっしゃって平然としておられました。
「信州教育」とよく言われますが、当時の先生方の教育にかける熱情は、今では想像できないものがありました。
学校から給料が出ませんでしたので、私は母親からお金をもらい、3人の生徒のために習字の半紙や模造紙、チョークなどを買って学校に通ったものです。
それでも、いちずで明るく、屈託のない女生徒との学校生活は、気心も知れ、親しさを増して楽しく、毎日充実しておりました。
9 『結婚―「3足のわらじ」 子供3人 頼もしく育つ』
長野高等実践女学校に赴任した翌年、昭和10(1935)年、縁あって校主の小林次雄と結婚しました。
学校の一員となって、初めて学校運営の困難さを認識し、がくぜんとしました。
高利の金を借りて校舎を建築したため、返済できなくなり建物を渡さなければならないような切迫した事態に陥っていたのです。
先生方への給料支給が滞り、しばしば証文で渡されていた事情がのみ込めました。
先生方もつらかったでしょうし、一日も早くそうした状況から抜け出さなくてはと頭を痛めました。
申し訳ないと思いながら、親や親せきにも金銭的な応援を仰ぎました。
4度にわたり、当時の金額で合わせて400万円ほど工面してもらいました。
当時、米10キロの値段が約2円、小学校教員の初任給が45円―55円、公務員の初任給が70円ほどでしたから、その額の大きさがお分かりいただけると思います。
親にとってみれば、娘の一途な性格から、あってほしくないという嫌な予感が的中してしまった形で、複雑な心境だったのではないでしょうか。
娘のためとはいえ、血の出るようなお金だと思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
昭和11(1936)年に長男士朗が、昭和15年には双子の二男健治と長女扶美が生まれました。
学校運営と教育、家庭の「3足のわらじ」を履いた日々で、子供たちを構ってやれず、申し訳ないといつも感じておりました。
健治と扶美が生まれた翌年、子供3人がそろって、はしかにかかった時は弱りました。授業をしながら看病はできなかったからです。
見かねたかかりつけの諏訪町の佐伯医院が「お子さん3人をうちで預かりましょう」と言ってくれたときは、本当に助かりました。
私生活など考えられない生活の中で、子供3人は、士朗を中心に力を合わせよくやってくれました。親孝行でした。
そんな中、忘れられない出来事もありました。
ある日の夕食どき、台所から釜(かま)に入れた汁物を両手で持って、子供たちが待つ部屋へ戻った時のことです。両手がふさがった状態で、自分でドアを開けようとした途端、けつまずいて倒れ、汁の中に顔を突っ込んでしまったのです。
熱かったこと熱かったこと。顔全体に火ばしを当てたようで、目も開けられませんでした。
健治が叫びました。「お兄ちゃん、お母さんを医者へ連れて行って!後は僕がやるから!」
士朗に手を引かれて、暗い夜道を掛かり付けの老川医院に行きました。
顔全体を包帯で巻かれ、目だけ出した無残な姿でした。
結局、4週間ほど授業を休むことになりました。
この時の子供たちは、頼もしく輝いて見えました。
10 『戦時色 日ごと濃くなる 生徒の就職探しに奔走』
親や親せきに工面してもらった資金を元手に、長野高等実践女学校は昭和11(1936)年12月、現在の県庁南に移転しました。
裾花川支流の八幡川沿いで、大正館という民家一棟を借り、改造して校舎としました。
昭和13年には商業科を併設し、本科と合わせ2コースになりました。
昭和15年ころになると、戦時色が日ごとに濃くなり、物資も乏しくなってきました。
ノートも質の悪い紙になり、学用品も教材も手に入れるのが困難を極めるようになりました。
生徒が卒業しても、就職するのが大変でした。私は生徒たちの就職口を探すため、長野国民勤労動員署に日参しました。
役所や学校を訪ねて就職先開拓に飛び回りました。
夕方、仕事を済ませて家にたどり着くと、幼稚園からおなかをすかせて帰宅した長男士朗が、火の無いこたつに足を突っ込んで眠っていることがよくありました。
火が無いため、こたつの奥へ奥へともぐり、灰の上に足を乗せたままスヤスヤ眠っている姿を見ると、不憫(ふびん)で不憫で、母親として胸が締め付けられる思いでした。
昭和16(1941)年に入ると、戦局はますます切迫してまいりました。
勤労動員のため、本校の生徒は貯金局と電話局に出動することになり、授業は午後の2時間のみとなりました。
先生方は午前中、生徒の動員職場を回って歩きました。
先生方の協力で学校運営も支障なく運んでいた昭和18年、戦時体制の一環として、国の指令で不要不意の私学に閉鎖命令が下りました。
長野県庁も乗り出し、本校も2度にわたって調査されました。
調査に当たった内政部長は、午後の授業を視察された後、部下に申したそうです。
「君、この学校は閉鎖してはいけないよ」
こうして、本校は学校存亡の危機を乗り越えられました。職員の喜びようはいうまでもありません。
学校は志願者が増加の一途をたどったため、その年の暮れに校舎増築案を出しました。
いつどうなるか先が読めない戦時下で、職員のだれもが否定的でした。しかし、先の事を考えれば、やれるものならやっておいた方がいいという結論に達しました。
資材難の折でもあり、困難は予想されましたが、県立学校のような校舎が欲しいという生徒たちの願いをかなえてやりたいという気持ちの方が強かったのです。
ある時など、数人の女生徒が私の所に押し掛けて来ました。そして、各自が私の目の前に握りこぶしを突き出しました。手のひらには、焼け跡から拾ってきた釘(くぎ)がありました。「これで、ぜひ県立のような校舎を建ててください」と迫りました。
この一途な熱意には心を打たれました。涙が込み上げてきて、顔を上げることができませんでした。
目のやり場に困り、袴(はかま)のひもをいじり、下を向いたまま、「校長先生に皆さんの気持ちをお伝えしておきますからね」と答えるのがやっとでした。
その期待を裏切りたくない気持ちと自主独立の理想を掲げた私学の歩む道として、増築を決断しました。
廃屋を買収して、使える物を資材として2階建ての2教室を増築しました。
現在の校舎とは比較にならないものでしたが、生徒たちには喜ばれ、苦労が吹き飛びました。
11 『激しくなる戦火 夜は旭山に避難し野宿』
戦局は急を告げ、南方に展開する日本軍は昭和18(1943)年、ガダルカナル島撤退、アッツ島で守備隊が全滅。翌年にはサイパン島の守備隊が全滅するなど悲報が相次ぎました。
そうした中、国内では戦時体制への協力要請がますます強まり、生徒たちも生と死を考えながらの生活となりました。
月月火水木金金の生活で、土曜日も日曜日もなくなり、生徒たちの通学も困難になったため、学校に隣接する民家2軒を借りて、寮としました。
生徒たちはこの2軒に分宿したのですが、食糧事情も日を追って厳しくなり、寮監としての仕事は増える一方でした。
そんな時、校庭を掘り起こしてつくった畑で栽培していたサツマイモが、収穫寸前にみんな抜き取られてしまいました。
朝、生徒から「サツマイモが盗まれてしまいました」と報告を受け、畑へ行ってみると、芋のつると葉が無残に放り出されていました。地面には地下足袋の跡がくっきり残っていました。
私は「盗まれた方が、盗んだよりはいいのよ」と生徒たちを慰めました。
サツマイモのつるなどは、そのまま捨てるのはもったいないので、葉はみそ汁の具に、つるはゆでて水にさらし、4センチくらいに切ってしょうゆをかけて食べるとおいしいことを教えました。
暗い世相の中で、生徒たちの気持ちがすさんだりしないように、朝、学校近くの土手などで野草の花を摘んで、食卓を飾り、一日を気持ち良く過ごせるように気を配りました。
昭和20年になると、戦火はいっそう激しくなり、8月上旬から夜は、裾花川を渡って旭山に避難する日が続きました。
そのころ、学校には日本軍の通信隊が駐屯しておりました。私たちが夜になると暗い山へ避難するのを見て、裾花川に簡易橋を架けてくれました。
私たちは真っ暗な中、目印に張られた白布を頼りにおっかなびっくり旭山に向かいました。山中は急斜面なので、野営する場所を確保するのが大変でした。
適当な場所を見つけて、竹の皮で作ったござを敷いて野宿するわけですが、転がり落ちたりして、安眠できた日は一日としてありませんでした。
8月13日には、米軍機グラマンによる長野空襲があり、47人もの犠牲者が出ました。旭山から燃える街を見ながら、日本の行く末を皆で案じました。
夜が明けると学校に戻り、生徒たちは勤労動員の職場へ向かう毎日でした。
そんなある朝、彼女たちが出勤した直後に空襲警報が鳴り響きました。そこに、八幡の両親の下に病弱の夫と兄弟3人で疎開させていた長男士朗が、「お母さん、ただいま!」と言って、一人で私の目の前に現れました。
「どうしてここへ?」
私はびっくりしました。
20キロ以上もある道のりを、8歳の小さな体で大人の自転車に横乗りして、懸命にペダルを踏んで駆け付けてくれたのです。
「お母さんのことが心配で心配で、お手伝いに来た」と息せき切って言うのです。
涙がこぼれそうになるのを懸命に抑えて、私は「長野に来たら死んでしまうから、早く帰りなさい!」としかるように言いました。
サイレンの音を気にしながら、妹の勤務先に連れて行き、一緒に八幡へ帰るよう頼みました。
士朗は泣きじゃくり、何度も振り返りながら、帰って行きました。
その姿を見て、心のうずきをどうすることもできませんでした。
12 『物資の欠乏―終戦へ 生徒の食糧確保に尽力』
昭和20(1945)年ころは、すべての物資が欠乏しておりました。特に食糧不足は、日ごとに深刻さを増していきました。
当時、私どもの生徒は、約70人が校舎や学校近くの民家を借りた寮に住み、貯金局などで勤労動員として働いていましたので、この生徒たちの食糧確保は大変な仕事でした。
職員は全員が毎日、大きなリュックサックを背負ったり、リヤカーを引いて、大豆島や松代方面へ食糧買い出しに行きました。
コメやはね出しのサツマイモなどを懸命になってかき集め、炎天下を汗だくで運びました。
配給食糧の不足を補うため、野山へ出掛けて野草を採取し、コメや麦、大豆に混ぜて食べました。
成長期の生徒たちは、存分に食べられず、乏しい食糧を分け合って食べました。
そんな中、木島平に住む農家の卒業生が、窮状を見兼ねて、コメを詰めたカマスを背負い、歩いて学校まで届けてくれたこともありました。
物資が欠乏しているなら、創意工夫で乗り切ろうと、いろいろ知恵を絞りました。
砂糖が不足すると、干し柿を作る際に出た皮をカラカラになるまで干して、粉にして代用しました。
勤労動員の生徒らは、疲れで顔色がさえませんでした。でも、なすすべがありませんでした。
ある時など、先生が、たんぱく源としてネズミを捕まえて学校へ持って来てくださった。
1くらいの細切れにして煮込み、体が持たないからと食べるように薦めたこともありました。
47人もの犠牲者が出た8月13日の長野空襲の翌日の夕方、学校の前に日本陸軍の車が忙しげに止まりました。うちの生徒の赤羽智子さんのお父さんで、長野連隊区司令部の赤羽少佐が降り立ちました。
「小林先生、娘も軍も、大変お世話になりました。明日からは、この軍服もサーベルも不要になりました」とおっしゃるのです。
いつもと違って、悲壮な様子でしたので、「智子さんは?」とお聞きしましたところ、「分かりません」とおっしゃって、敬礼して足早に軍用車に乗って去られました。
不可解でした。
翌、15日の朝。
ラジオが何度も玉音放送があると告げました。そして正午、天皇陛下の沈痛なお声が聞こえてまいりました。
昨夕の赤羽少佐の言葉の意味がようやく理解できました。
敗戦―。
この2文字が私たちを怒涛(とう)のように襲いました。
敗戦、そして占領政策としての民主主義。何もかもガラリと変わりました。
きのうまで良かったことが今日は否定されました。
日本人にはなじみのなかった民主主義が産声を上げ、世の中も人心も混乱しました。
そうした渦の中で、家庭教育こそ教育の基本という確信を強くしました。
価値観が変わり、揺れ動く世相の中で、これまで以上に、いかに女子教育を充実させていくべきか。寝ても覚めても考え続けました。