第1回~第6回(長野市民新聞2001年7月15日~7月21日掲載分)
1 『勉強家の父が命名 日本の織物の起源から』
私が明治時代に生を受けはや94年。私学の女子教育に携わって70年になります。振り返ってみますれば、いろいろなことがありました。
明治という時代がそうさせたのか、この時代の人たちには何か一本筋が通っていたように思えてなりません。
頑固というか、何事にも一徹というか。
私が女子教育に全身全霊をささげ得たのも、明治人のそうした精神の影響があったのかもしれません。
私は更級郡八幡村(現更埴市八幡)志川という所で明治40(1907)年5月21日、産声を上げました。
当時の八幡村は、武水別神社の門前町として栄えておりました。
私が生まれた時には既に2人の兄がおりましたが、父小川今朝治と母和佐にとっては初めての女の子誕生とあって、それはそれは大変な喜びようだったようです。
区長のような役を務めていた父は、10歳から漢字を学び、独学で国漢(国文と漢文)の資格を得たほどの努力家で、学問への意欲と才能に恵まれた聡明(そうめい)な人でした。
82歳で亡くなるまで日記を書くのを欠かさず、まくら元にはいつも国漢の本を置き、読みふけっていた姿が目に焼き付いております。
地元でも一目置かれておりまして、村の先生も学校の帰りに家に寄って漢文を教わっていたそうです。そんな時、父は皆の話を黙って聞いていて、最後にやんわりと先生たちの研究不足を指摘したということです。
また、差別をなくすための水平社運動にも共鳴しておりまして、弱い立場の人たちのために何かと手を差し伸べ、信頼されていたようです。
ある時など、そうした人たちが20人ほどで家に来て、土間に頭をすりつけて「自分たちの苦しみを分かっていただき、本当にありがとうございます。何か世の中が広くなったような気がします」と感謝されたそうです。
父は「お互い人間同士なのだから、顔を上げて向き合って話し合いましょう」と話したそうです。
その「向き合って」というのが、水平社運動の精神でした。
そんな父が私に付けてくれた名前は「倭文(しずり)」でした。
難しくて、今の人で読める人は少ないかもしれません。
縄文人が植物の表皮をつめではがして織った倭文織になぞらえたそうです。日本での織物の始まりであり、人生の始まりという意味で命名してくたのです。
また、父なりの考えから、当時の教育界の大御所で、現在の実践女子大の創立者・下田歌子さんに手紙を書き、「人生への指針と座右の銘になるような和歌をお与えください」とお願いしたそうです。
下田さんから贈られた和歌一首は額装され、ずっと生家に掲げられてありました。
下田さんは、岐阜の藩士の家に生まれ、父親から勉強を教わり、後に宮中女官となり明治天皇のお妃(きさき)に和歌を教えた人です。父は私への期待を下田さんに重ね合わせていたのかもしれません。額を見るたびに、父の温かい心が感じられ胸が熱くなります。
2 『虚弱体質だった幼少時 家族と離れて療養生活』
幼少のころの私は病弱だったようで、よく父に背負われてあちこちの医者に診てもらっていたそうです。
5歳の時、復員した軍医に診てもらったところ、「腸結核ではないか」とのことでした。
父は、麻績駅の近くにあった刈間医院にも行ったそうです。
刈間医師は「これは、上諏訪の諏訪郡立高島病院(現在の諏訪赤十字病院)で診てもらったほうがいい」と教えてくれました。
高島病院は検査設備が整っており、いろいろ検査してくれるということでした。
当時、父の妹が高島病院で婦長をやっておりましたので、「ちょうどいい」ということになりました。
高島病院の先生は、検査データを見ながら、「腸結核などではありません。娘さんは全体として虚弱体質ですね」と診断を下しました。
腸結核でないと分かって、胸をなで下ろした父に婦長のおばは言ったそうです。
「家に帰っても家族が多いのだから、しばらくここで静養させるつもりでお預かりしますか?」 父は二つ返事で「そうしてもらいたい」と頼んだそうです。
私を医師に託した父は「お医者さんの言われるようにして、早く治って家に帰ってきなさい。皆で待っているからね」と噛(か)んでふくめるように言って、帰ろうとしました。
幼い私が、そんなこと理解できる訳がありません。
「嫌だ!とうちゃんと一緒に帰る」と泣きじゃくりながら、はだしで父を追いかけたそうです。
看護婦さんが私を抱き止めながら「そんなこと言ってはいけないよ」となだめました。
病室を回っていたおばが呼び出されました。
おばは「しず子さん、お医者さんや看護婦さんの言われることを良く聞いて、丈夫な体にするのよ」と優しく言いました。
母親の懐に抱かれていたい幼い身で、家族と離れての療養生活が始まりました。
それはそれは、つらいものでした。
寝ても覚めても八幡の両親やきょうだいのことを思っては、泣いてばかりいました。今思い出しても胸が締め付けられます。
救いは婦長のおばがいたことでした。
ただ、おばは患者さんだけでなく看護婦さんの面倒も見ていましたので、いつもいつも私の元に来られませんでした。 それでも、安心感を与えてくれる存在でした。
当時、高島病院には小児科などありませんでしたので、大人と一緒の病棟でした。
もちろん、遊び友達などおりません。私は庭に咲いているアオイの花を拾ってきては、階段の所で一人で遊んでいました。
その階段は段差が2センチほどしかなく、広くて転んでも転がり落ちることもなく安全でした。私の憩いの場所でした。
八幡の家には祖父母もおり、子供も多かったので、両親は面会にも来られませんでした。
寂しい時は、おばが来てくれたので助かりました。
3 『八幡尋常高等小学校に入学 親に背負われ通う日も』
諏訪郡立高島病院での療養生活は、2年にわたりました。退院できたのは、7歳の早春でした。
退院の前に、父は八幡尋常高等小学校へ出向き、当時の校長、花岡国太郎先生に就学を延期した方がいいのかどうか、相談したそうです。
高島病院の医師にも尋ねたところ、「虚弱体質だからちょっと無理かもしれないが、鍛え直して丈夫な体にしたらいい。規則正しい生活をし、食べ物は好き嫌いをせず、何でも食べるように」と助言してくれたそうです。
退院した後、父は私の体を強くするため、いろいろな人から経験を聞いたり、漢方薬などについてあれこれ勉強したようです。
そして、干し柿とニンニクを刻んで、なべで長い時間かけて煮て、あめのようにしたものを作ってくれました。
それを朝、昼、晩とスプーン1杯なめさせられました。
不思議なもので、これをなめているうち、力がついてきたような気がしました。
とはいえ、八幡尋常高等小学校に上がったものの、虚弱体質の私は級友と一緒になって跳び回ることはできませんでした。
花岡校長からは、雪の日や雨の日、風が強い日は、背負って通学するようにとの要請が親にありました。
学校までの道のりは、徒歩で片道15分ほどでした。天気が悪い日は、母に背負われて登校し、帰りは迎えに来てくれ、背負われて下校しました。
わが家は祖父母と両親、7男4女の子供合わせて15人家族でした。
食事の時は母はご飯などを盛ることに追われ、大変なものでした。
食べ盛りの子供11人が、次々茶わんを差し出し「ご飯お願い! ご飯お願い!」と催促するものですから、母は目が回るような慌ただしさでした。
3升炊きのかまでご飯を炊くのですが、弁当を詰め、皆が食べ終わった時には、母の食べる分は残っていませんでした。
母はそばがきなどを作って、おなかを満たしていました。
父は、私が小学校4年の時から兄たちと共に、毎夜、ほの暗い石油ランプの灯の下で漢文を教えてくれました。
箸(はし)で文字を指しながら、私に初めて教えてくれた漢文は、「和順内に積れば而して栄華外に発す」でした。
女性は和やかに従い、内容の充実した優しい人間になれといった意味です。
長兄には七歩の詩を、次兄には「少年老い易く…」を教えてくれました。
父はそのころ、小学生の私に、現在の実践女子大学の創立者・下田歌子さんや共立女子大の創立者・鳩山春子さんが女子教育にあたってどれほど苦労されたか、よく話してくれました。
このお二人の純粋さにあこがれを抱きながら、つかれるように父の話に聴き入っていたことを今でも記憶しています。
4 『忘れられぬ校長や担任 幼心に「先生になろう」』
八幡尋常高等小学校は、地元で八幡神社と呼ばれている武水別神社から西に500ほど入った所にあり、自然に恵まれていました。
小学校時代の私は、引っ込み思案で泣きべそでした。
2人の兄が「パッチ忘れたから、持って来い!」とか、「下駄そろえておけ!」と命令し、それを2人の弟たちもまねして「姉ちゃん、おれのもやっといてくれ」と命令するわけです。
どっち向いていいか分からないほど用を言いつけてくる。間に合わなくて泣き出しちゃうんです。
そんなこともあって、引っ込み思案になったのではないでしょうか。
勉強は好きでした。でも、体操だけは好きになれませんでした。
昔は11月ごろまで、はだしのまま校庭で体操をやるんです。
廊下は赤れんが造りでした。夏は涼しくてよかったのですが、冬は冷たくて耐え難かったことを覚えています。
冬でも上草履を履くことは許されませんでしたので、つま先立ちで歩いていました。その寒さは骨まで凍り付く思いでした。
小学校時代の先生で印象に残っているのは、花岡国太郎校長です。
折り目正しい紋付きはかま姿で、いつもニコニコしていらっしゃいました。「児童よ何事にもまじめなれ」が口ぐせでした。人格的に素晴らしく、児童から慕われ、親からも尊敬されていました。
花岡校長は病弱でした。旧制の長野師範学校卒業で、当時ステッキを突いていました。お辞めになる時、送別会の席で自分で作詞作曲した「学びの庭」という歌を、自分でオルガンを弾きながら歌い、児童に教えてくれました。
「学びの庭の父母(ちちはは)と別るる今日の悲しさよ…」といった振り出しでした。
そのお姿を見て「立派だな」と感動したのを覚えています。
2年の時の担任だった唐木田つる先生も忘れられません。家庭科と音楽の先生でした。
その唐木田先生は「しずこさん、大きくなったら先生になりなさいね」と頭をなでてくれました。
幼心にも「私も先生になろう」と思ったものでした。
八幡尋常高等小学校は、はじめは尋常科4年が義務教育で、その上に高等科4年が設けられていましたが、明治40(1907)年に義務教育が6年になったことから、私が在学していたころは尋常科が6年、高等科が2年となっていました。
尋常高等小学校を卒業した大正11年、長野県埴科実科高等女学校(現・県立屋代南高校)の本科3年に編入学しました。
この学校を目指したのは、ほんのちょっとしたきっかけでした。
当時、父が毎月、稲荷山の本屋から「少女の友」という雑誌を買ってきてくれました。娯楽の少ない時代ですから、女の子はこの本の発行をいつも心待ちにしていたものです。
インクのにおいがする真新しい本を読み進めていたら、短歌の欄が目に留まりました。
投稿者の中に、2年先輩で寂蒔の飲食店「小岩井館」のお嬢さん、小岩井ちとせさんの名前を見つけました。名前の後ろに「長野県埴科実科高等女学校在校生」とありました。
全国で読まれている雑誌に名前が出るなんて、それはそれは素晴らしいことです。
先輩と実科高等女学校に魅せられた私は、この学校へ進もうと決めました。
5 『埴科実科高等女学校に入学 「内面豊かに」との教え』
私が入学する2年前に、長野県組合立埴科農蚕学校から名前が変わって開校した埴科実科高等女学校(現・県立屋代南高校)は、自宅から歩いて40分ほどでした。
昔の人は、どこへ行くにも歩いて行ったものです。
当時、この地域では唯一の4カ年修業の女子中等学校でした。付近の女学校といえば、上田と長野両高女だけでしたので、戸倉や塩崎、稲荷山など広い町村から通学していました。
当時は渋谷専校長でした。実科高等女学校の初代校長として、今では考えられないような力を振るっていました。
教師としての資質に欠けていると判断したら、その教師を即刻クビにしてしまい、すぐ新しい教師と入れ替えてしまうのです。
大正ロマンの時代です。女性も積極的に外へ出るようになり、行動も活発になっていました。
女性教師も増え、実科高等女学校にも5、6人いました。
絹の靴下をはいていたり、金紗の着物姿だったり華やかでした。こうした先生たちは、生活のために働いているというより、結婚相手を探すことも重要な課題だったように見受けられました。
校庭の両側に職員用のテニスコートがあり、男性教師と女性教師が楽しそうにテニスをしたり、夜はコンパなども開いておられたようです。
そんな時、羽目を外したりして、生徒のうわさに上ると大変です。その先生は、翌朝には学校に出て来ませんでした。
渋谷校長が解雇してしまったのです。
家庭科を担当していた黒沢先生、大西先生は、今でも忘れられません。
東京・九段にあった和洋女子専門学校(現・和洋女子大学)の卒業生でした。
教科だけしか教えられない幅の狭い女性教師が多い中、両先生はシェークスピアなどについて、いろいろ話してくれました。
先生方は授業中、机の間を歩きながら学生の顔色から健康状態を判断するのですが、その時に、「内面豊かな人間になりなさい」とか、「本をたくさん読んで視野を広げなければいけませんよ」などと語り掛けてくれました。
この2人の先生と接していると、小学校時代の担任・唐木田先生から言われた「大きくなったら先生になりなさいね」の言葉がよみがえり、夢が広がってゆくのを感じました。
それにつけても、心に焼き付いていることは、父が私をじいっと見詰めながら「無知で塩辛い女にはなるな」といった言葉です。
父の言葉は重く、示唆に富んでいました。
女学校時代には、次のようなことも聞かされました。
「女は男より勉強しておくんだ。結婚すれば、夫や子供だけでなく近隣にまで、その影響は広がるものだから」
「娘一人を教育することは、男7、8人を教育することになるものだ。だが、勉強は鼻を高くすることではなくて、鼻を低くして畦(あぜ)道で腰を休めているように振る舞えるようにするものだ。そういうことが女の徳というものでな」
長じて後、父が娘の私を女として、いかに育てていくかということに、どんなにか心を砕いていたかを知り、感謝したものでした。
6 『小山先生との出会い 女子教育に人生傾注へ』
長野県埴科実科高等女学校(現・県立屋代南高校)を卒業した私は、家庭科担当だった黒沢、大西先生の影響もあって、両先生の出身校、和洋女子専門学校(現・和洋女子大)の高等師範科に進みました。
中等教員を養成するための学校で、「和」はなごく、「洋」はひろくの意味。人間性豊かな先生を世に送り出すための学校でした。
学校は当時、九段の靖国神社のそばにありました。
入学してしばらくは、南千住のおじの家にお世話になり、毎朝、南千住から九段下まで市電で通学していました。
当時、市電の運賃は7銭でしたが、午前7時までに乗ると2銭割引となっていました。
この2銭の差は大きかったですから、毎日乗り遅れないように一生懸命でした。
通学するのにちょっと遠かったので、そのうち学校の近くに部屋を借りて、引っ越ししました。
借りた部屋は九段の坂の中間点にあり、3畳一間でした。ここで3年間過ごしました。
学校の帰り、九段の坂を登って来ると、近くの近衛師団からラッパの音が響きわたってきました。その音色が耳に心地よく、いつも立ち止まっては聴き入ったものでした。
学校には、裁縫と脳の中枢との関連についての論文で医学博士となられた藤田トラ先生など、個性的な先生がいらっしゃいました。
信州から出て来た若い娘にとって、東京での暮らしは、見るもの聞くものすべてが初めてのことばかりでした。
藤田トラ先生ら立派な教育者に接する中で、女子教育に携わりたいという気持ちが日に日に膨らんでいきました。
そんな時、運命の出会いが用意されていようとは、思いもよりませんでした。
学友雑誌「すみれ」に、「ひとりしずか」と題した、つたない自作の詩を投稿したことがことの始まりでした。
編集担当者から「同じ名前の植物があるが、題名はそれから取ったのですか?」と尋ねられました。
私はヒトリシズカという植物を知らなかったのです。
その学友から、ロマンチックな花をつける植物だと教えられ、ぜひ知りたいと思いました。
父に手紙を書き、ヒトリシズカについて詳しい人がいたら教えてほしいと頼みましたら、長野に住んでいらっしゃった植物学の大家とされていた、小山海太郎先生を紹介してくれました。
私は夏休みを利用して、小山先生をお訪ねしました。
山王小学校の近くにあったご自宅には、「小山の巣」と書かれた表札が掛かり、部屋には標本が所狭しと並べられ、本棚には専門書がびっしり詰まっておりました。
先生はヒトリシズカについて、分かりやすく解説してくれたほか、いろいろ話を聞かせてくれました。
小山先生と出会ったことで、私の人生は女子教育に結び付き、現在の学校法人長野家政学園の運営へと導かれていったのです。