第13回~第18回 (長野市民新聞2001年8月7日~8月18日掲載分)

13 『復興―道徳観大切に教育 校長に就任覚悟新たに』

 

 敗戦の混乱の中での女子教育。課題は山積しておりました。

 世の中には、「民主主義だから何をしてもいいのだ」とか、「勝手をするのが民主主義だ」といった考えがはびこっていました。困ったことでした。

 私たちはこういう時だからこそ道徳教育が必要だと考え、授業に取り入れました。

 当時、道徳なんて言葉を口にしたら、「封建的だ」と批判されるのがおちでした。

 日本という国を軽べつしたり、悪く言う人ほど、文化人のように思われる時代でした。

 私たち教職員はこうした考えに反対でした。例え、うちの学校に入る生徒が少なくなったとしても、そのような考えで教育を行ってはいけない、と思いました。

 戦争に負けたからといって、日本人としての道徳観をないがしろにすることはできませんでした。

 家族関係における道徳、夫婦関係の道徳、兄弟間の道徳、先生と生徒との間の道徳、こうしたけじめがなくなったら、人間と人間の結び付きは途切れてしまい、和やかな生活は営めないのです。

 そういうことを、生徒たちに教えました。

 人間としての基本的なこと、大切なことを、世の中が変わったからといって忘れてほしくなかったのです。

 当時、こうした理念に基づいて女子教育ができたことを、今でもよかった思っております。

 生徒たちはゆくゆく母となり、子供をもうけ、命をかけて子供を教え導いていかなければならないのです。そのことをしっかり理解してほしかったのです。

 時はめまぐるしく流れました。

 教育制度の大改革に伴い、昭和23(1948)年4月1日、校名を「長野高等家政学校」と改称しました。

 新制中学校を卒業した生徒を入学資格者とし、修業年限は3カ年となりました。

 この年の新入生は18人で、2人用の机を一人で使っておりました。

 増築を重ねてきた県庁近くの校舎は、段々手狭になってきました。近くの農地を買収して、生徒と教職員が一緒になってグラウンドとして整地したりしました。

 このころから、さらに環境の良い所があれば、学校を移転したいという気持ちがわいてきました。

 「孟母三遷(さんせん)の教え」という言葉があります。

 孟子の母親が、孟子の教育環境を考え、最初は墓所近くに住居を移したら、孟子がお葬式のまねばかりするので、次に市場の近くに引っ越しました。そうしたら、今度は商人のまねをしてお金のことばかり言うようになったというのです。

 孟子の将来を考え3度目に学校のそばに引っ越ししたら、やっと勉強するようになったということです。

 子供にとって環境は、いかに大切かという教えです。

 学校の将来を考えた時、県庁近くでは広い用地を確保するのはますます困難になると見通し、学校にふさわしいいい環境を求めて市内各地を探す作業が始まりました。

 そうした中、小林次雄校長が病気で学校に出られなくなり、昭和28(1953)年に私が校長に就任することになりました。

 一切の責任が私の肩にかかり、これからの厳しく長い道程を覚悟して、新たな一歩を踏み出しました。

 担任をしながらの校長職で、目の回るような忙しさでした。母と父との永いいまわの別れにも行かれませんでした。

 

 

 

14 『学校法人認可目指す 新校舎建設へ東奔西走』

 

 私は昭和28(1953)年、46歳で長野高等家政学校の校長に就任しました。

 年ごとに、入学する生徒の数も増え続け、学校の評判も上がってきました。

 基礎知識・技能をしっかり身に付け、人間を育てるという教育方針は、教職員や生徒の間に着実に浸透していきました。

 ここまでの道のりの中で、私は口には出しませんでしたが、頭の中では、高校大学一貫教育の実現を思い描いていました。

 なぜなら、わが校は各種学校であったために大学進学の資格はなく、生徒が就職する際も何かと不利な待遇を受けることが多かったからです。

 そんな事情もあって、生徒たちのために、まず学校法人の認可を受けて高等学校として昇格させたい、という思いが募ってまいりました。

 ただ、学校法人が高等学校を運営するには、土地は生徒一人あたり1・44坪(約4・8平方メートル)、校舎の延べ床面積が土地全体の5分の1の面積が必要でした。

 しかも、必要に応じて拡張できる敷地がなければならないという一定の基準が設けられておりました。

 私たちの理想と現実とのギャップは大きく、高等学校への昇格は、生易しいものではありませんでした。

 私たちは、学校法人設立へ向けて、東奔西走(とうほんせいそう)しました。

 来る日も来る日も、足を棒にして関係機関などを回り、土地を探し求めて歩き回りました。午後の9時、10時に帰校することが続きました。

 こうした努力は、8年間も続きました。

 当時の長野市長・倉島至さんのお骨折りもあって、現在の三輪にいい土地を見つけることができました。

 ここは昔、宇木城の跡で、周りには樹木が茂った堤があり、その外側には壕(ごう)の名残をとどめておりました。

 城跡の入り口には氏神を祭った神社があり、静かで周囲の眺望もよく、素晴らしい環境でした。

 そのうえ、電車の駅が近くにあって、通学にはもってこいの土地でした。

 ここら辺では、当時、農耕用に牛や馬を飼っている農家が多く、のどかな農村風景が望め、それまで見てきたどの場所よりも教育環境に恵まれていました。

 農家の人たちは、土地を見に来た私たちに、かぶっていた手ぬぐいを取って「おはようござんす!」とあいさつしてくれました。

 近所同士が助け合い、「結い」の人間関係が保たれていました。こうした人たちを目の当たりにして、学校を造るならここしかないと決断しました。

 土地の所有者は、大地主の春原義平さんでした。

 春原さんはおおらかな人で、「いくらでも土地を使ってください」と言ってくれました。また、周囲の人たちも学校建設に協力的で、心強く感じました。

 結局、畑地1200坪(約4000平方メートル)を譲っていただくことになりました。

 PTAなどを中心とした支援の輪も広がり、昭和31(1956)年9月15日には、倉島市長を会長とする長野女子高等学校設立期成同盟会も結成されました。

 多くの方々の協力を得て、学校法人認可へ向けた校舎建設は、昭和32(1957)年1月17日に着工しました。

 

 

 

15 『学校法人に認可理事長に 志願者急増両校を統合』

 

 校舎建設に当たって、建設に詳しい東京の知人に相談しましたところ、最も信頼のおける業者として北野建設さんを推薦してくれたのです。

 くしくも、北野建設社長・北野吉登さんのご子息・幾造さんは当時、わが校で住居に関する授業の講師をされておりました。

 わが校との因縁の深さに神秘的なものを感じました。

 「何か社会事業に尽くして死にたい」とおっしゃられていた北野建設の吉登さんと幾造さん父子は、資金もろくに集まらない私たちの懐事情を理解してくれ、「学校の都合のよいときに払ってくれれば結構です」と言ってくれました。

 第1期工事は、木造2階建ての1号館と講堂・体育館など2号館の建設でした。

 工事と並行して学校法人と高等学校の設置認可申請書を提出しました。

 その結果、昭和32(1957)年2月20日にまず「学校法人家政学園」設立の認可が、その1週間後には長野女子高等学校の設置がそれぞれ認可されました。同時にこれまでの長野高等家政学校の経営も認可されました。

 うれしくてうれしくて、支えていただいた多くの方々に感謝し、涙が止まりませんでした。

 その半面、「もっと早く学校法人にしておけばよかった」という後悔みたいな気持ちと、法人設立基準に沿って手に入れることができた広い土地を、活用できるのだろうかという不安が頭をよぎり、複雑な心境でした。

 学校法人に認可され、私は理事長に就任することになりました。

 第1期工事は、4月の開校へ向け突貫工事で進められました。

 1号館と2号館は昭和32(1957)年4月25日、それぞれ完成しました。

 県庁前の校舎からの引っ越しの日は、あいにくの雨となりました。全校生徒こぞってもんぺ姿となり、リヤカーなどで荷物を運びました。

 竣(しゅん)工式と開校式は、日をあらためて6月4日、倉島至・長野市長ら150人の来賓を迎え、盛大に行われました。

 新天地での学校建設は、まさにわが校の新たな歴史への第一歩でした。

 新しい校舎となった32年度は、入学志願者が急増しました。

 高等学校(家政科)は450人、県庁前の高等家政学校は220人もの応募があり、入学試験は山王小学校の教室をお借りして行いました。

 記念すべき年度の新入生として、高校が216人、家政学校は106人が合格しました。

 新しい校舎の普通教室は9つしかありませんでしたから、家政学校の1年生だけは、県庁前の旧校舎に残し、他の学年は新校舎に移転しました。

 校舎が2カ所に分かれていたため、一部の先生方は三輪と県庁前との間を往復しなくてはならず、不自由でした。

 その上、わが校は家政科に重きを置き、実習が多かったため、生徒が増えると同時に特別教室がさらに必要となりました。

 昭和33(1958)年1月には第2期工事として、特別教室6つが完成。毎年150人を募集し、全校定員を450人とする当初の構想が実現しました。

 ところが、昭和32、33年度も女子高への入学志願者は、450人に上りました。

 こうした社会的な要請と、各方面からの勧めもあって、高等家政学校を女子高に統合し、毎年350人を募集、全校定員を1050人としました。

 地震など災害から生徒を守るため、鉄筋コンクリート造り4階建ての本館を増築し、同時に北側隣接地に3000坪(約1万平方)のグラウンドを造成しました。

 

 

 

16 『日本大学に入学法律を学ぶ 通信教育宿直中に勉強』

 

 戦後、民主主義が浸透する中で、学制改革や思想の自由などさまざまな変遷がありました。将来、女子教育も、たくさんの難問に直面することが予想されました。

 わが校も生徒が増え、規模が大きくなるにつれて、教師の目も行き届かないケースも出て、生徒の生活指導や保護者との関係などについての対応が難しくなっていくだろうという危ぐを抱きました。

 「どうしたらいいのか?」

 いろいろ考えた末、もう一度大学に入り、今度は法律を学ぼうと決心しました。

 時代の流れと申しますか、さまざまな局面で、必ず法律と向かい合っていかなければならない時が来ると思ったからです。

 学園の理事長を務めながら、大学に通うわけにはいきません。そこで、学園に居ながらにして学べる通信教育を受けることにしました。

 夏場に義務付けられた大学へ出向いての長期のスクーリングを受けるのは大変だと思われましたが、それくらいなら何とか切り抜けられると判断しました。

 「学校法人家政学園」が認可された昭和32(1957)年4月、私は日本大学法学部法律科に入学しました。

 「50歳の挑戦」でした。

 いざやってみると生易しいものではありませんでした。

 テキストに沿って、大学側から問題が出て、その解答を送り返す通信教育の勉強は、授業を受け持つ傍ら校長職をこなした後、もっぱら真夜中から明け方にかけてやりました。

 余談になりますが、私は89歳まで毎夜、学校の宿直をやっていました。自分の学校は、自分で守りたかったのです。

 真夜中、懐中電灯を手に静まり返った広い校舎内を回り、教室の隅々を調べ、トイレの扉も一つ一つ開けて点検して歩きました。

 巡回していると、後ろから「ヒタ、ヒタ」とスリッパの音だけがついて来ました。

 私が毎晩、宿直をやっていることを知っていた人たちは、校舎内を照らして巡回する懐中電灯の光を見ては、「校長先生が今、教室へ入って行ったよ」とか、「今度はトイレへ入って行ったよ」なんて話していたそうです。

 通信教育の勉強は、宿直をしながらやりました。気が付いたら夜が開けていたなんてことはしょっちゅうでした。

 大学生になった孫から「おばあちゃん、倒れちゃうよ」と本気になって心配されたこともありました。

 まさに自分との闘いでした。

 4年目の1月、卒業面接がありました。

 卒業論文のテーマは自由でしたので、私は20年にわたる経験を踏まえ、「教員養成について」と題して提出しました。

 面接の担当教官は、高梨公之法学部長でした。

 高梨教授は、私の論文について「テーマはなかなかいい。今後の女子教育に役立つ」と褒めてくれ、86点をいただきました。

 「継続は力なり」という言葉がありますが、私の孤独な挑戦は、努力のかいあって、なんとか4年で成就することができました。

 昭和36(1961)年3月25日、晴れて卒業式を迎えました。

 その日、東京は雨でした。

 日大の大学院に進んでいた長男士朗が、保護者として付き添ってくれました。

 

 

 

17 『短大設置へ向け8年 高大一貫教育の夢実る』

 

 私の長年の夢は、高校と大学併設の高大一貫教育でした。

 昭和33(1958)年ころから、この夢を実現させるため動き出しました。わが校が学校法人家政学園長野女子高等学校として認可され、学校運営が曲がりなりにも軌道に乗り出した翌年のことでした。

 そんな時、長野駅のホームで電車を待っていた時に目にした光景が、私の心を突き動かしました。

 それは、都会から行楽に訪れたらしい女子大生のグループでした。ベンチに座り、菓子を食べながら、大はしゃぎしているのです。

 楽しそうにしているのはいいのですが、聞くとはなしに聞いてしまった話の内容がまるでお粗末で、これが最高学府で学んでいる学生かと失望させられました。

 この時思いました。「地方で堅実に育った娘さんたちを快楽的な大都会に出したら、親からも解放され、悪い色に簡単に染まってしまう。地方の娘さんたちのために、堅実な人づくりの場としての家政学の短大を設立しよう」

 当時県内にあった短大は、松商学園短大と県立短大だけでした。

 高校で学んだことを実践する場として、短大が必要だと考えました。

 高校の施設拡充も進んでいたこともあり、新たな一歩を踏み出しました。

 短大設置の認可を受けるには、敷地の広さ、校舎の規模、教員の態勢などに関する厳しい規定がありました。

 その上、大学設置審議会や私立大学審議会の審査という2つの関門を突破しなければなりませんでした。

 特に審議会の審査に合格することは容易なことではない、と関係者から聞かされていましたので、それなりの覚悟はしておりました。

 私は仕事が終わった後、夜行列車を使ってたびたび文部省を訪れ、短大設置申請の手続きなどについて指導を仰ぎました。

 それと同時に、短大にふさわしい教授陣をそろえるのも急務でした。私は全国各地を回って、いい先生を探し歩き、学園にスカウトすることもしました。

 認可へ向けた取り組みは、何度も壁にぶつかり、くじけそうになりました。

 申請手続き上どうしてもうまくいかないことがあって、県出身者で学校法人私立学校振興会の総務部長を務めておられた人に「1年延期しようかと迷っている」と胸の内を打ち明け、相談しましたところ、「認可申請にあたっては、どこの学校も苦しんできたのです。頑張ってあと一押ししなさい」と励まされました。

 この部長さんは会うたびに、「体を大切にしなさいよ。私学の担当者の中には、大学が認可された途端に心労で倒れたり、1年も寝込んでしまったり、疲れから亡くなった人もいますから無理をしないように」と温かく注意してくれました。

 短大設置へ向け動き出してから、すでに8年が経過していました。

 昭和41(1966)年暮れ、大学設置審議会と私立大学審議会の審査に合格しました。

 そして、翌年1月28日付で文部大臣から認可が下り、「学校法人長野家政学園長野女子短期大学付属長野女子高等学校」となりました。

 学校創立から42年目にして、高大一貫教育の夢が実りました。

 

 

 

18 『走り続け94歳―女性にエール 夫婦はいたわり合って』

 

 わが校の高校大学一貫教育が実現してから、はや34年がたちました。

 この間、県と国から教育功労者として表彰されたほか、藍授褒章(昭和44年)、勲四等宝冠章(昭和57年)を授与されました。

 各界の方々のご推薦があってのことで、身に余る光栄と今でも恐縮しております。

 また、昭和41(1966)年から4年間、及ばずながら県教育委員も務めさせていただいたことも、いい経験となりました。

 生徒と一緒に歩み、新しい時が刻まれました。

 わが校から巣立った生徒学生は、高校が約1万7000人、短大は5000人に上ります。

 私にとっては、どの生徒、学生も掛け替えのない存在です。

 その中でも特に忘れられないのは、戦争を挟んだ波乱の時代を共に歩んだ長野高等実践女学校、長野高等家政学校の生徒さんたちです。

 当時の生徒さんたちは、すでに70代―80代となりました。

 私たちは師弟のきずなで結ばれ、苦楽を共にした戦友でもありました。

 彼女たちは東京や愛知、奈良、新潟など全国各地に散らばっていますが、互いに声を掛け合ってツアーを組み、私を訪ねてくれます。

 そんな彼女らを見ていますと、「いい教え子を持ってよかった」としみじみ幸せを感じます。

 市内などに住んでいる当時の教え子たちも、ちょくちょく家に来てくれます。

 彼女たちは、大抵黙って台所から入って来て、冷蔵庫などを調べ、あれこれと晩ご飯の支度などをしてくれます。

 台所で「ゴソゴソ」音がするので、居間から「だれか居るのですか?」と問い掛けると、「◯回生のだれだれです。先生のおかずを作っておきますから」などという返事が返ってきます。

 冬が近づけば、誘い合って障子を張りに駆け付けてくれます。

 老いて背中も曲がり、小さくなってしまった私を見るに見兼ねて、いつも温かく見守ってくれています。

 彼女らが、私の自慢の教え子です。

 多くの理解ある人たちに支えられ、私立の女子教育に携わって70年。女手一つで、曲がりなりにも学校をここまで育てることができました。

 給料も、ボーナスも、すべて学園経営につぎ込んできました。

 私には何も残っていません。

 自宅もありません。

 私は今、学校の職員用住宅をお借りして、住まわせてもらっています。

 振り返ってみますと、親や親せきに迷惑をかけ、つらいことも数え切れないほど経験しました。

 どんなに苦しくても悲しくても、自分自身をしかりつけ、涙を振り絞って自分に厳しく厳しく生きてまいりました。

 家政学園としての女子教育の根本は、人間性豊かな女性を育てることにあります。

 「良妻賢母」の育成。

 私の女子教育の原点はここにあります。

 死語と化してしまったこの言葉を持ち出すと、今の人たちはきっと古いとおっしゃるでしょう。

 しかし、今の日本の社会を見ていますと、この精神を見直していただきたいと思わずにはいられません。

 今の世の中、女性の元気よさばかりが目立ちます。ただ、若い女性は氾濫(はんらん)する情報に踊らされやすいところがあります。将来妻となり、母親となる心の準備ができていません。

 家庭では夫がいて妻がいて、互いにいたわり合わなければならないのに、妻が女として自由だとか、女の権利があるなどとばかり主張していたら、家庭など成り立ちません。

 折り合いが付かなければ、すぐ離婚しちゃう。子供はどうなりますか。親の離婚で傷つくのは子供です。

 夫婦がいたわり合う中で家庭は成立し、子供は安心するのです。そして、平穏な社会が築かれるのです。

 これからのお父さんお母さんにお願いしたいことは、純潔と強健、勇気の手本になるようにしていただきたいということです。

 私も走り続けているうちに94歳になっていました。

 これからも、若い女性、若いお母さん方にエールを送り続けます。 (おわり)

(注)
学校法人長野家政学園は、2023年4月1日より、学校法人聖啓学園と合併し、「学校法人長聖」となります。また、長野女子高等学校は、2026年3月31日をもって閉校となります。